不殺生という生き方とは

いのちの大切さを理解する料理として精進料理は存在します。
しかし、精進料理はいのちの大切さに気づくための料理であって、いのちを奪わない不殺生の料理ではありません。
それは、例え肉や魚を使わない精進料理であっても、野菜や果物にもいのちがあるからです。
ですから、どんなものを食べても私たちはいのちを奪っているということに変わりはないのです。(詳しくは箸蔵寺公式サイト「精進料理のお話」参照)

それでは、いのちを奪わない不殺生の食事というものは存在するのでしょうか?

その答えの一つが托鉢です。

托鉢の考え方は、自分が生きていくことで他のいのちを奪わないということ。
本来は捨ててしまう余分なものを人からもらって生きていくことにより、自分が生きていくために新たないのちを奪わないという考え方です。
ですから、托鉢では、いただいたものに肉や魚が入っていても、それが殺されたところを見なかったり、自分のために殺されたものでなかったりすれば、それを食べてもかまいません。
托鉢では、いのちを「動物か植物か」で区別するはなく、「自分が生きていくために他のいのちを奪ったかどうか」で区別するのです。

「鉄腕ダッシュ」という番組に「0円食堂」という、捨てられてしまう要らなくなった食材を集めて料理を作るコーナーがありますが、この考え方は、托鉢の精神とよく似ています。

では、托鉢こそが究極の不殺生の生き方なのでしょうか?

残念ながらそうとは言い切れません。
なぜならば、世界中の人が僧侶になって托鉢で生きていこうとすれば、余ったものなど出てこないのですから・・・。
普通に生きていのちを奪っている人がいないと僧侶は不殺生を貫くことはできないのです。

社会全体で見れば、やはり人はいのちを奪わなければ生きていけない存在なのです。

そういう社会の中で、
僧侶は他の皆様のおかげでいのちを奪わず綺麗に正しく生きていく。
そして在家の方はそういう僧侶を敬い、食べ物を供養することによりその生き方を助け、自らも功徳を頂く。
このようなお互いを敬う人のつながりが托鉢です。

今は托鉢というと募金の手段と思っている方も多いかと思いますが、本来、托鉢は手段ではなくいのちを見つめる生き方そのものでした。

精進料理についての法話を頼まれることが多いですが、お時間が許される時にはこのような話を付け加えさせていただいています。

様々な人々が様々な場所でそれぞれの役割を果たしながらこの世界がなり立っています。
今の時代、何かを生み出すという仕事ではない僧侶はどのような役割を果たせば良いのでしょうか。
生きること死ぬことを心ゆくまで考えることを許される仕事?に就いている私たち僧侶にできることは何か。
それを問いながら伝えられるものを伝えて行ければと思っています。

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