菩提心37号 -何をやるか、なぜやるか(事相と教相)-

第37号特集.何をやるか、なぜやるか -事相と教相-(H31.3.15)

 真言密教で用いられる言葉に「事相(じそう)」「教相(きょうそう)」というものがあります。
事相とは拝み方などの実践的な部分、教相とは教えなどの理論的な部分です。
この二つは「車の両輪」または「鳥の双翼」であるといわれていますが、これは、車の両側の車輪や鳥の羽のように、両方揃っていないと意味をなさないものであるという意味です。
つまり、どの様に拝むかだけでなく、何を意味するかを解って拝むことが必要だと説かれているのです。

これらは私たちの社会においても言えることです。
例えば、昔から続いている伝統や風習は、その意義を理解していれば次の世代に引き継いでいくことができますが、それを忘れて、ただ「昔からやっているから」とか「みんながやっているから」という理由になってしまえば、いつか、「面倒だからやめてしまおう」ということになりかねません。
また、間違った形で伝わりそうになったとき、本来の意味を理解していれば、何か変だと気付いて正しい形に戻すことができます。

教育の場においても、「先生に怒られるから」という理由で物事を判断する子と、「これは本当にやって良いことなのかいけないことなのか」を考えて行動する子では、心の成長の度合いが違うと思います。
「先生に怒られるから」という理由で物事を決める子は、先生のいないところや先生にばれないと思った時には態度が変わり、本当の道徳心は育っていかないでしょう。

これ以外にも、たとえ目の前のことを一生懸命にやっていたとしても、それがなんのために行われているかを理解せずにやっていれば、知らず知らずのうちに本来目指すゴールとは違う方向に向かっていることなど、実践と理論が伴わなければうまくいかないことは数多くあります。

2012年にiPS細胞でノーベル賞を受賞された山中教授の好きな言葉は「Vision and Work hard(ヴィジョン アンド ワークハード)」です。
これは理念や目標(ヴィジョン)を持って一生懸命に働く(ワークハード)という意味です。
山中教授は、「日本人はワークハードは得意だけれど、ヴィジョンは苦手、つまり、一生懸命働くのは得意だけれど、頑張るということに囚われて本来の目的を見失ってしまうことが少なくない」という内容のお話をされていました。
その背景には、日本人には「例え失敗しても頑張った人には優しく、口先ばかりで何もしない人間には厳しい」という国民性があるように感じます。

しかし、考えようによっては、実際に行動することが「体が頑張ること」ならば、頭で考えることは「脳が頑張ること」です。
同じ頑張ることなのにもかかわらず、体が頑張って脳がサボることには甘く、脳が頑張って体がサボることには厳しいというのはどこかおかしい気がします。
どちらも本当に大切なことなのですから、一生懸命だということに甘えて物事を深く考えなくなり、そのために折角の努力が空回りしたり無駄に終わってしまうのは本当に残念なことです。
また、失敗しても「頑張ったのだから仕方がない」と、一生懸命を、物事を考えない言い訳に使ってしまったのでは、これから先も同じことの繰り返しです。
「下手な考え休むに似たり」ということわざもありますが、頭も体も経験や失敗を積まなければ成長しません。

何かを実践するということは本当にすばらしいことです。
しかし、その実践が、本当の意味や、どこに向かうのかをしっかりと理解して行われた実践であれば、さらに素晴らしいものとなっていくことでしょう。
どちらも大切に進んでいきたいものです。

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