「ダ・ヴィンチ・コード」(その2)

今回は「ダ・ヴィンチ・コード」の中で、一番心に残った(引っかかった?)言葉について、感想を述べてみたいと思います。

ネタばれにつき、続きの方に…。

(ここから)

「聖書は天国からファクシミリで送られてきたのではない。」

「なんですって?」

「聖書は人の手によるものだということだ。神ではなくてね。雲の上から魔法のごとく落ちてきたわけではない。混沌とした時代の史記として人間が作ったもので、数かぎりない翻訳や増補、改訂を経て、徐々に整えられた。聖書の決定版というものは、歴史上一度も存在していないのだよ。」

小説の中に、こんなやりとりが書かれています。

「なるほど、うまいことを言うな~」と一瞬は思ったのですが、オボウサンの私としては、すぐに違和感を感じました。

「聖書は神が書いた物じゃない」→「聖書は人が書いた物だ」

ここは分かります。でも

「聖書は人が書いた物だ」としたら、→「だから聖書は…」

の後が、何を入れてもしっくり来ないのです。

これを仏典に置き換えてみます。

「生あるものは必ず死ぬ」

という言葉がありますが、

「『生あるものは必ず死ぬ』という言葉は人間が書いた言葉である」

だとしても、

「人間が書こうが書くまいが、『生あるものは必ず死ぬ』」

なんですよね…。

「生者必滅」は、お釈迦様が作り出したものではなく、お釈迦様が気づいた法則(=悟り)なのですから。

仏教の歴史は、初めはお釈迦様自身(人)を信仰の対象としていたものが、

お釈迦様が亡くなり、信仰の対象を失うと、お釈迦様自身よりも、お釈迦様がたどり着いた悟り(教え)を信仰する形となり、

さらには、「お釈迦様がたどり着いたならば、過去(や未来)にもその悟りにたどり着いた(たどり着くであろう)方々がいるのではないか?」
という理由から過古仏(未来仏)といった仏様が誕生していきます。

仏教は「誰が」ではなく、「何を」なのです。

これが、仏教とキリスト教の考え方の違いなのでしょうか?
それとも、作者の考え方との違いなのでしょうか?

「聖書は人の手によるものだということだ」
この言葉を大事にする作者は、「何を言ったか?」よりも「誰が言ったか?」を大切にしているのかもしれませんね。
この部分、カトリックの立場ではどう思っているのか、興味深いところです。

高野山大学元学長の松長有慶先生の講義のなかに、

「悟り(真理)とは目に見えない電波のようなもので、誰の周りにもある。それを受信できるラジオを持つことができれば誰でも悟ることができる。」

という言葉がありました。

そう考えると、悟りとは大自然・大宇宙から、私たちという受信機に向けて、いつでも送り続けられているファクシミリと言っても間違いではないのかも知れません。