知っても仏、できても仏

「知らぬが仏」は、「誰かにとって辛いことや腹の立つことが起こっていても、本人が何も知らなければ、心穏やかに過ごしている」という意味のことわざです。

元来、仏様は全てを見渡せる力を持っているので、僧侶としては「知らない仏」がいることは想像できません(笑)
仏さまは、世の中の怒りも苦しみもすべてが分かった上で、あの穏やかな表情をされているのですから。

「知らぬが仏」は、自分への陰口、深刻な病気、誰かの片思いなど、色々な場合で使えますが、どの場合においても、「知らないから平気」より、「知ってもなお逃げずに向き合う」の方が、何倍も難しく、そして何倍も強い心を持っているといえます。

これは、「知る」だけでなく、「できる」にも当てはまります。
「できないからこそやらずにいられる」と「例えできてもやらない意思を持つ」ことも、全く違います。

・「先生が見ているからサボらない」と「先生がいなくてもサボらない」では、どちらが信頼があるでしょうか。

・入院中、病院食しか食べられなかったから血糖値が下がった人のうち、どれだけの人が、退院して何でも食べられる世界に戻っても、その血糖値を保つことができるでしょうか。

・「浮気なんてしてないよ。今の生活ではそんな時間なんてないし、誰かと出会うきっかけもない。」とパートナーに言われた人は、それで浮気の疑いは晴れても、それが本当に安心する答えなのでしょうか(笑)
きっと、本当に望む答えは「どんなときでも、なにがあっても大丈夫」なのだと思います。

他にも色々な場合があると思いますが、「ないからできない」のは環境の問題「あってもやらない」のは自分の心の問題です。

今の時代、様々な形の魅力的なツールがあり、それにともなう、様々な形のリスクや依存症も存在します。
今の私たちには、それらを知った上で、「何をやるか」、「どこまでやるか」という、判断力や自制心が試されているのだと思います。

「知らぬが仏」「できぬが仏」は気楽でいいですが、知らないからうまくいくということに安心するのではなく、「知っても仏」「できても仏」という心構えを持っておきたいものです。