宗教をもつということ

初の「宗教色Lv.高」です。
苦手な方は読まないようお願いします。
もし、あなたが誰かに突然、「あなたは死にます。」と言われたら、きっとびっくりすることでしょう。
しかし、そのあとに、「いつかはね。」と付け加えられたら、「なんだ、そういう意味か。」とちょっと安心するのではないでしょうか。

同じように、「地球は滅びる」と言われても、それが何億年も先だとしたら、自分が生きている間は大丈夫」と思ってそれほど気にしないのではないでしょうか。

私たちの多くは、目の前に迫った死以外は、考えることを避ける傾向にあります。
人である以上、一回生まれたのだから一回死ななければいけないことはあたりまえのことなのですが、いつかしなければいけない覚悟ををできる限り先送りしてしまうものです。

しかし、いくら先送りしても、いつかは死と向かい合わなければならない時がやってきます。
その理由が、自分の老いであったり、突然の病気の宣告であったり、事故や天災、時には戦争であったりと、人それぞれだと思いますが、だれもが真正面から死と向かい合い、実感するときは必ずやって来ます。

このような、逃げられない死を実感した時にどう向き合えばよいのか、その答えを見つけるのが宗教の大きな役割の一つです。

ここで言う宗教とは宗教団体の意味ではありません。
宗教とは教えそのもののことです。
ですから、個人的には「宗教に入る」という言葉はおかしな言葉だと思っていいます。
宗教を信じると言うことは、「宗教に入る」ではなく、「自分の宗教(観)を持つ」ということだと思っています。

自分の宗教を持つということは、生きること、死ぬことと真正面から向かい合い、自分が納得できる答えを持つということです。
自分がどこから(生まれて)来て、どこに(死んで)行くのかという問題に真正面から向き合い、自分の納得のいく答えを出し、心安らかに死を受け入れられるようになることだと思っています。

ここに

「私は生まれてから今までただの一度も神仏にすがろうという気持ちを持ったことがない。だから、葬式は必要ない。」

という人がいるとします。
その人は「無神論者」であったとしても「無宗教」ではないと思います。
なぜなら死への恐怖を克服できる独自のしっかりした宗教観を持っている人だからです。

逆に、しっかりした自分の宗教観を持っていない人こそが怪しげな宗教団体に勧誘され入信させられる危険が高いと思っています。

現在の世の中にはたくさんの宗教がありますが、正しい宗教は生きること、死ぬことと真正面から向き合っています。
そして、正しい宗教は、強制や、法外な対価を要求することなく、答えを教えてくれるはずです。

もちろん仏教も、紀元前の昔からこのテーマに向きあい、多くの宗派に分かれながらもそれぞれの答えを出し、人々に安らぎを与えています。

このブログは、布教活動をメインの目的にしているものではありません。
しかし、どんな形であれ、自分の宗教(観)というものを持った方がいいと考えています。
死ぬことと向かい合うことは、生きることと向かい合うことだと思っています。
真言の僧侶の言葉としては不適切な言葉にとられるのかも知れませんが、どんな形でもいいので、いつか自分が心から納得できる宗教(観)に出会えることを祈っています。
それは、誰かに強制的に信じ込まされるのではなく、自分が心から納得できるものであって欲しいと思っています。
そして、突然見ず知らずの人に

「あなたは死んで地獄に堕ちます」

と言われたとしても、

「私はあなたの考えた地獄に行くつもりはありません。」

と、はっきり言える強さと生き方を持ってほしいものです。

(追記)
参考までに私も真言宗密教の教えや世界観の中に納得する答えを見つけることができました。
密教の修行(観想法)により、「私は世界の一部であり、さらには世界は私と同じである」と言うことを体感できるようになり、死ぬと言うことは、「生み出されたもの」から「生み出されるもと」に還るという感覚をすんなり受け入れることができるようになりました。

それによって、

・同じ生み出されたもの同士、そしていつか同じ所(もの)に戻る者同士、どうつきあっていけばいいか?

・生み出されたいのちを自分で放棄して戻っていくのはいいことなのか?

など、この世界で生きるいくつかのヒントをもらうことができました。

正直なところ、まだ経験したことのないことである以上、死に対する不安はまったくないと言えばうそになります。
しかし真言密教に出会えたことで相当な安心を得ることができ、それなりの覚悟はできたと思っています。

もちろん、自分の宗教観はまだまだ完成したものではないと思っています。
年月や経験によってさらに変化したり、より強固な物になっていくかもしれません。