欲を持つ、夢を持つ(我欲、大欲)

密教の大きな特徴の一つは欲を認めているということです。
欲の持つ大きなエネルギーを肯定しています。
とはいえ、どのような欲も肯定しているわけではありません。
私たちの宗派では、我欲小欲と言われるものではなく、大欲というものを認めています。

我欲小欲)とは自分だけが幸せになれれば良いという欲、つまり自分が幸せになるために誰かを犠牲にするような欲のことです。
自分のせいで誰かが辛い思いをしたり、誰かの大切なものを奪ってしまうような欲は認めていません。

これに対して大欲とは誰もが幸せになる欲のことです。
誰かが犠牲になることで成り立つのではなく、共に心豊かになっていく欲、それが大欲なのだと理解しています。
(もちろん、同じ欲だとしても、取り巻く状況によっては、誰もが応援出来る欲になることもあれば、わがままだと思われる欲になったりすることもあるかと思いますが。)

良い欲を認めている密教の教え、それはよい夢や目標なら持ってもいいと言い換えてもよいと考えています。
夢や目標の持つ大きなエネルギーはそれによって日々を生きる力を与えてくれますね。
「いつか○○するのを楽しみに今を頑張れる」というのは素敵なことだと思います。

また、「いつかは…」ではなく、すでにそれ自身が自分を豊かにするというものを持っておられる方はさらに幸せな方だと思います。
自分の芯になるものというか、ライフワークというか…
「辛いときにはそんなことはしたくない」と思うものではなく、「辛いときこそそれに助けられた」と言えるもの、そういうものを持っている方は強く優しくいられるのだなと。

お大師様は確か仏典を引用されて、「受け難き(生まれがたき?)人身を得て、会い難き仏法に会う」というようなお言葉を遺されていたと思います。
人として生まれ、この世で仏の教えに出会うことができたという意味です。
私としても宗教家としての至らなさから、もっと何かできたのではないかという後悔もたくさんありますが、仏教のおかげでほんの少しでも良き果に繋がる縁を与えることができたこともいくつかあります。
そしてそれは私の糧となり、宝物となっています。

最後に、ある書家の言葉をご紹介します。
その方は「悲しいときは悲しい字を書きます。」と仰っていました。
その言葉は私の心に深く残りました。
その方にとっての書は、「悲しいときには手がつかないというもの」でなければ「悲しみから救い出す道具」でさえもなく、「悲しみまでも表現するご自身の生き方の一部」になっていたのだと感じます。

まだまだ学ぶことは多いです。