選択と双修

以前、公式サイトの寺報で、「二利双修」という話をさせていただきました。(菩提心第30号)

自分を高めていくことを自利(じり)、誰かのために何かを行うことを利他(りた)といい、その二つを共に行っていくこと「二利双修(にりそうしゅう)」が大切だという話でした。

寺報は、前半分の「二利」中心のお話でしたが、今回は「双修」について、思うところを述べたいと思います。

「双修」とはどちらも行うこと
「双修」の反対語は、この場合、どちらかを選ぶという意味で、「選択」でしょうか。
「この道を右に行くか左に行くか?」というのは、どちらか一方しか選ぶことができないので「選択」です。
しかし、私たちの回りには、自利と利他のように「双修」できることを「選択」で片付けたり、どちらも大切なのに、優劣をつけたりしているものが見られます。

例を挙げると、学ぶことと人間性を育てることは、どちらも大切なことです。
もし誰かが「周りを幸せにしたい」という気持ちを持っていたとしても、それに見合った力を学び、身につけていかなければそれは「ただ思っているだけ」です。
反対にいくら自分を磨く努力をしても、それを世の中に返そうという気持ちを持たないのであれば、それは「生かされている」ことを理解していない人間です。
それなのに、まるで「勉強」の反対語が「人間性」であるように考え、どちらかしか手に入れられないと決めつけているような言葉を吐く人がいます。

また、テレビの討論番組の、子供の成長に何が大切かというテーマでは、「親に問題がある」、「学校の責任」、「社会が悪い」などとという意見が飛び交います。
全部が大切だという議論なら良いのですが、自分が得意とする分野が一番優れている、というコメントも少なくありません。
花が咲くためには、日光も水も必要なのに、どちらの方が大切なのかを言い争っているようなものです。

そういう時によく使われるのが「そんなことより」という言葉です。
この場合の「そんなことより」は、自分が大切だと思っていることをよく見せるために、相手の方を下げる言葉です。
わざわざ相手を下げなくても「それも大切だけど、これだって負けないくらいに大切だ」と、お互いを認め合えばよいのにと思ってしまいます。
お互いの違う価値観や多様性を認め合うことができる方が、広い視野や寛容さ、バランス感覚などを身につけることができるのではないでしょうか。

双修は大変なことで、必ずしも成果がついてこないこともありますが、どれもが大切なことと気付いてしまったなら、努力は継続しなければならないと思います。
もちろん、予算や時間の制約がある場合は、本来は双修できることでも、優先順位をつけたり選択をしなければならないこともあるかも知れません。
そういう場合は、誰かと協力することも大切です。
心を一にした協力や分担は、決して選択ではなく、「社会でおこなう双修」だと思います。