真言僧侶になるには

これまでに何度も「お坊さんになるにはどうしたらいいのでしょう?」というご質問を受けることがありました。
一口に僧侶になると言っても、色々な段階があり、なかなか説明が難しいので、一度自分の頭の整理も兼ねて、僧侶としての資格取得の過程をまとめてみたいと思います。
ここにご紹介するのは真言宗の僧侶としての過程です。
修験道(山伏)の行者の資格とは異なるものですので、混同ならさないようお願いします。

得度(とくど)

頭を丸めて仏門に入ることです。
まず、師僧となってくれる僧侶を探し、得度式を行い剃髪します。
そして、師僧より、僧名(僧侶としての名前)を授かり、得度を済ませたという証明書である度牒(どちょう)を頂きます。
本山がある場合にはそれを申請し、末寺の弟子として登録されます。
これをもって、「修行することを許される」スタートラインに立ったといえます。

四度加行(しどけぎょう)

得度が済むと、ここから修行がスタートします。
まず、般若心経や理趣経、観音経、様々な仏様の御真言など、真言僧侶として誰もが唱えることのできるお経、いわゆる「常用経典(じょうようきょうてん)を学びます。
このあたりは、在家の方でも既に唱えられる方もいらっしゃると思いますが、僧侶になった以上は、完璧に唱えられるように修練を積みます。

これができるようになったら、次は、真言密教ならではの拝み方を身につける「四度加行」をする許可を受け、新たな修行に移ります。

以前、寺報にも書かせて頂きましたが(「真言僧侶の拝み方」参照)、真言密教の考え方は、自力求道(自分の力だけ)でもなければ、他力本願(すべてを仏様にすがる)でもありません。
自力と他力を併せ持つ「自他力(じたりき)の考え方がとられます。
つまり、仏様が私たちを見守ってくれる「慈悲」の力と、私たちが仏様を信じる「信心」の力が一つになった時、大いなる力「加持力(かじりき)」が生まれるという考え方です。

四度加行では、仏様と私たちを繋ぐ方法、仏様とお話をする方法を身につけていくのです。
具体的に言うと、護摩法などの実際の修法を学んでいきます。
この期間が、多くの僧侶にとって、肉体的にも精神的にも最も苦しい期間の一つです。
四度加行によって、修行僧は、「自分のため」だけではなく、いつか、「誰かのため」のお願いを橋渡しすることができるようになっていきます。

「四度加行」は、現在は、高野山の専修学院や、私たち御室派で言えば仁和寺の仁和密教学院といった、僧侶育成の専門機関で行うか、高野山大学などの宗門の大学で、夏休み等の時間を利用して行われる「学生加行(がくせいけぎょう)」などが一般的です。
末寺の寺院では、得度は可能でも、四度加行を引き受けてくれるところは少ないです。

伝法灌頂(でんぽうかんじょう)

四度加行を無事に成し遂げることができたなら、伝法灌頂という儀礼を受けます。
通常は、各宗派の総本山(御室派であれば仁和寺)にて行われます。
伝法灌頂は、お大師様が唐で惠果阿闍梨から受けたもので、それを現在まで脈々と受け継いで授かることになるのですから、最も厳かで重要な儀礼です。
これによって、修行者は、阿闍梨(あじゃり)の位を得て、誰かに仏法を伝えたり弟子をとったりすることができる、一人前の僧侶として認められます。
現在は、宗派や本山によって、それぞれ決まり事があります。
御室派では、伝法灌頂を受けた後、本山に申請すれば、僧階(僧侶の階級)と、教階(布教師の階級)が決まります。

一流伝授(いちりゅうでんじゅ)

「一流伝授」は、伝法灌頂を受けたもののみが許される伝授です。
ここでいう「一流」とは、一流、二流、三流と言った、レベルの意味ではありません。
真言宗には様々な流派があるので、一つの流派を隅々まで授かるという意味です。
四度加行では、拝み方の最も必要な部分は習っていますが、一流伝授ではその流派について、さらに詳しく隅々まで学ぶことができ、様々な本尊様の修法を学んだり、様々な目的の拝み方に対応できるようになります。
また、自分が四度加行で修行した流派以外の拝み方を学ぶために、複数の流派の一流伝授を受ける方もいます。

その他の修行、伝授

ここまでが僧侶としての学びの大きな流れですが、それ以外にも特別な修行や伝授が数多くあります。
修行で言えば、「虚空蔵求聞持(こくうぞうぐもんじ)法)」「八千枚護摩」など、真言宗の中でも苦行として知られるものも存在します。
伝授に関しても、声明(しょうみょう)の伝授や、悉曇(しったん=梵字)の伝授など、さまざまな専門的な伝授もあります。

このように、真言僧侶といっても様々な段階があることが解っていただけたかと思います。
仏門に入り、学ぶことが目的ならば、得度だけで十分かと思いますが、僧侶という生き方を選び、「自行」だけではなく「利他行」を行っていくならば、四度加行、伝法灌頂までは必要かと思います。

最後に、誤解のないように申し上げますが、これは、僧侶としてなにができるか、何をしてよいかという資格の目安であって、これだけで僧侶の全てを評価するものではありません。
適切な例えかどうか分かりませんが、原付の免許を持って毎日仕事で乗っている方と、普通免許を持っていてもずっとペーパードライバーの方、どちらが交通状況の判断力が上なのでしょう。
これと同じように、僧侶としても、多くの時間や経験も必要だと思います。
もちろん、「人として」の経験や成長、日々の向き合い方も含めてです。