先達と公認先達について考える

とある霊場の支部の研修会でお話をさせて頂くご縁を得ました。

用意されていたお題は「別格霊場の現状と先達の心得」。
霊場会の現状については広報担当をしているのでさほど話に困ることはありませんが、先達の心得に関しては様々な切り口があり、少々悩みました。
今回、「先達とは何か、公認先達とは何か」をあらためて考える良い機会となりましたので、ここに残しておきたいと思います。

まず最初に、先達とそうでない人の違いを考えてみました。

霊場巡拝は先達にならなくてもできますし、先達であろうがなかろうが、詳しい方は本当に豊富な知識や経験を持っておられます。
では、先達かどうかの違いはどこにあるのでしょうか?
先達という言葉を辞書で調べてみると、「その道に通じ、他の者を案内・指導する者」などという言葉が出てきます。
ということは、先達とはその道に通じるだけでなく他者を案内し指導する者、つまり、自利のみでなく自利と利他の二利を双修している者ということになります。

たとえ先達を目指していたとしても、自分が知識や経験を「インプット」するだけであれば、まだ見習いの状態。
自分が得たものを誰かのために「アウトプット」して初めて先達としてのスタートを切ったといえます。

次に、先達と公認先達の違いはどこにあるのかを考えてみました。

先述のように、先達とは「その道に通じ、他者を案内し指導する者」を指します。
巡拝における先達も、正しい知識があり参拝者を先導していく力があれば、誰かに資格を授からなくても先達です。
教員免許を持っていない学生の家庭教師でも生徒から見れば先生であるように、先達も資格を持つものを表す言葉ではないと考えています。

では、公認先達とは、先達の中で資格を持ったものという解釈で良いのでしょうか…?

私の考えでは、霊場の公認先達というのは「特定の霊場会からその霊場に関する知識や巡拝経験を評価されてお墨付きをもらい、同時にその知識や経験を生かし霊場の発展のために力を貸す責務を負った者」だと解釈しています。

つまり、公認先達とは、「先達であるということ」を公認したものではなく、○○霊場という「特定の霊場の先達であるということを公認したもの」だということです。
それぞれの霊場会が認定するものですから、各霊場会の中では上位の位置づけになると思いますが、先達という生き方からすると、「公認先達を持っている人が何も持っていない先達よりも上」などという、直接の上下の格付けとなるものではないと考えます。
(もちろん、公認先達は一つの判断の基準になるとは思います。そして、巡拝のことや霊場のことをより深く知りたいと考えて公認先達を取得された先達さんには本当に熱心で素晴らしい方々が多いということは実感しております。)

また、霊場会が公認するということは、「この霊場会の発展のために力を貸してもらいたい」という想いも込められています。
例えば、英検という資格であれば「英検一級を持っていれば就職や給与に有利に働く」という手段として活用しますが、それを霊場会の考え方に当てはめると「英検一級の実力を持って、英語の楽しさやすばらしさを世の中に広めて欲しい」というように、それ自体が目的となります。
このように、霊場会の公認先達になるということは、肩書きと同時にお役目も頂いているということ、それが一般の資格と異なる部分だと思います。

現在、一人で複数の霊場の公認先達を取得されている方も大勢いらっしゃると思いますが、そういう方々におかれましては、「全ての巡拝に共通する普遍のもの」だけでなく、「それぞれの霊場で異なる特徴的なもの」についても皆さんに分かりやすくお伝え頂ければと思います。
前者が「先達の心得」、後者が「公認先達の心得」といったところでしょうか。
霊場ごとに巡拝の趣旨も異なります。(発心→修行→菩提→涅槃だったり、六波羅蜜の修行だったり)
また、納め札の色の使い分け方も異なります。(巡拝回数だったり、先達階級だったり)
このような各霊場の目指すものの違いや特徴など、独自性を伝えることも、それぞれの魅力を伝えることに繋がっていくのだと思います。

先達に関しては様々なお考えがあるかと思いますが、以上、個人的な考えをご紹介させて頂きました。